W. ヘルベルト

ヨーロッパ文化における「生と死」その2:中世の「臨終行儀」

現代の世俗化がすすんでいるヨーロッパの国々(独、仏など)では、世論調査によると、神の存在を信じる人が過半数に満たず、死後の世界があると思ってる人の割合も3分の1程度です。ユングによりますと、宗教は昔、死の準備の教育の役割をはたしており、死後の世界の信仰が精神衛生上大変良いと心理学者として高い評価をしています。子供には
20年以上の教育を与えているのに年をとっても死に対する教育はまったくなされていません。若さが崇拝される中、老いる事自体がタブー視または軽視されています。
これはユングが1930年代に行った講演の中で発言したことですが、21世紀の現在でも通用するように思われます。科学と技術の発達によって生活面ではいろいろな恩恵が得られましたが、物質主義が主流の考え方になったために精神面で失われ、忘れられた事は
少なくありません。
そのなかには、ars moriendi (「死ぬ」芸術)という思想があります。それが成文化される以前に、中世初期から良い死を迎えるための条件として伝えられたのは、死ぬ人が、信仰告白、懺悔、遺族との和解をし、自分の魂を神様にゆだねることでした。中世のヨーロッパで、人々は何度もペストという恐ろしい疫病に襲われました。それゆえ聖職者だけではなく素人も死ぬ人に立ち会う事ができるように手引きが作られたのです。ラテン語から現地の言葉に訳され、挿絵入りのバージョンも広く普及しました。代表的なものは、
15世紀初頭の「絵解きars moriendi」(著者不明)です。そこでは、人間が死ぬ瞬間(とき)が描写されています。興味深いことにキューブラー・ロスの「死への過程の5段階」ー1、否定と隔離。2、怒り。3、取り引き。4、抑圧。5、受容。ーとの共通点もあります。キューブラー・ロスが心理的な面を説明しているのに対し、それをスピリチュアルな戦いとして表現しています。当時の世界観にそって、天使と悪魔の戦いの形になっています。否定的な気持ちが出て来た時、必ず天使が救いとして登場します。その天使とは、人間の中に眠っている、どんないやな気持ちでも克服する力の現れであると考えられます。死ぬ人は以下のような5つの誘惑に駆られると書かれています。
1、信仰への懐疑。天使が悪魔は嘘つきで信じる事が美徳であると囁き、不屈の信仰心を持つべきであると説きます。立ち会う人は信仰告白を読めばよろしい。
2、絶望。罪があまりにも重く救いがないと悪魔が囁けば、天使は希望を持って懺悔しなさい、神の慈悲はどんな罪の重さより強いと信じなさいと励まします。
3、焦燥感。痛みと苦痛が長引くとイライラし、怒りが沸き起こる。その時は、辛抱強く病気に耐えなさい。それは死ぬ前の煉獄であると天使は教えます。
4、傲慢(自己中心)特に敬虔な信者がおごりという気持ちに陥りやすい。自負心がルシファという一番美しい天使を悪魔にし、それが罪のもとであると言われます。
5、物欲。悪魔が財産、家、家族への執着を煽ると、天使は現世のものは捨てるべきである、貧しいものが神の国へ行けると教えます。  
  これらの精神的な葛藤を経て最期を迎える事になります。その時、立ち会う人は十字架、マリア様の絵、聖人の肖像などを見せながら絶え間なく祈り、病人も共に祈る事を薦めています。衰弱して力がなくなると心の中で祈る事が望ましいと書かれています。
 最期に「神様、私の魂を委ねます」と祈る事が推薦されています。そうすることができれば、死を受容している段階にきたと考えていいと思います。
 中世の人々にとっては、死ぬ瞬間が魂の救いにとって決定的なときであると信じられていました。日本の仏教の「臨終行儀」をみても同じような事が言えます。医療史を研究している、新村 拓が指摘するように、他にも似ていることが幾つもあるのは興味深い事です。特に最期の時、有縁の仏像を見ながらひたすら念仏、蛇羅尼をする事などです。死ぬ人を、この世の執着から完全に解放して、往生すること、天国へいくことへ集中できるようにすることが目的であっただろうと思われます。新村によると、16世紀に、キリスト教の「臨終行儀」がイエズス会の神父によって日本に紹介されたということです。内容はars moriendiそのものでした。
昔の時代に戻る事はできないし望ましくもありませんが、ars moriendiから学べる事があると思います。現代人が死を考えなさすぎるのとは対照的に中世の人間は死を常に意識していたようです。Ars moriendiはチベット死者の書や仏教の臨終行儀と同じく、人を見取る時だけではなく、全ての人が生きている時からよく勉強すべき文献だと言われています。Ars moriendiはars vivendi (「生きる」芸術)なのです。

参考文献:

Hennezel, Marie de & Jean-Yves Leloup:
Die Kunst des Sterbens. Frankfurt a. M.: S. Fischer 2002

Jung, Carl Gustav:
"Seele und Tod", C. G. Jung: Die Dynamik des Unbewussten. Olten & Freiburg i. Br.: Walter-Verl. 1976 (= Gesammelte Werke 8. Bd), 445-455

N. N.:
"Ars Moriendi ('Bilder-Ars'), Jacques Laager (ed.): Ars moriendi. Die Kunst, gut zu leben und gut zu sterben. Texte von Cicero bis Luther. Zuerich: Manesse 1996

新村 拓
ホスピスと老人介護の歴史、東京:法政大学出版局 1992



Published in:
Sei to shi o kangaeru kai: Kaihô/Bulletin
29, 2004, 2-4