w. ヘルベルト

現代的なスピリチュアリテイとは何か:哲学と科学と宗教の統合をめざして


 現代ではスピリチュアリティーについて論ずることはきわめて非科学的であるという見方がほとんどであると思います。しかしそれは科学を狭い意味で捉えているからです。もともと認識の方法であった科学(science)が科学主義(scienticism)というイデオロギーになってしまいました。一元的、物質的、感覚経験主義的、実証主義的な思想と唯物論だけが「科学」として認められ、まるで五感と理性で確かめることができる事以外は存在しないと決めつけられているかのようです。実は、古代ギリシャの哲学とは理知を使って物事を吟味探究する企てであって、そこから「科学」が生まれました。当時の哲学は形而上的な質問(宇宙の根元、神の存在、霊魂の不死不滅など)に重点をおいていましたが、現代の哲学はただの言語ゲームの分析と脱構築主義に退廃しました。
 以前の世界観の主幹は存在の大いなる連鎖でした。現実とは物質、身体(body)、心(mind)、魂 (soul, spirit)、霊 (SPIRIT)、といろんなレベルが多元的に折り込まれていると考えられていました。この大いなるSPIRITとは、宗教か哲学かによって呼び方が違いますが、神、神性、絶対的一者、ブラハマン、法身、空、道、などと言われている、それぞれのレベルを超越、包含しているものと思えばよいでしょう。
 宗教の核心はスピリチュアリティーを養う事です。スピリチュアリティーというのは自我を超えてスピリットとの繋がりを感じる事です。そこには3つの次元 ー水平的な次元(対人的):自我を超えた無条件の愛(アガペ)。垂直次元(トランスパーソナル):神-至上の存在-との関係。求心次元(個人内):真我、魂、仏性との関係ー があると考えることもできます。どの時代の宗教でも、スピリットとの繋がりを感じる為に、広い意味での科学、経験的な方法がありました。これは宗教の実践:祈り、祈祷、ダラニ、観照、黙想、瞑想、只管打坐、座禅、ヨガ、などです。それぞれの宗教は教義、教条、神話のうえでは異なったものをもっています。それは宗教の表、形、公衆的な教え(顕教)だからです。宗教の実践とは奥義、神秘主義(密教)をさしています。神秘主義とは形を超えたスピリットを直接経験する次元に達するものですから、どの宗教にも共通しています。それは宗教の普遍的な神髄なのです。
 それでは広い意味の科学とはなんでしょう。科学をただの方法として理解するとそれは的確な認識を得る手段に他ならないことがわかります。科学的な方法には3つの要素があります。1、介助的指示:実験、手本、手順、パラダイム、「もしこれを知りたければこれをせよ」ということ。2、直接的感受:経験する事、データ、知識を得る事、3、共同体的確認(否認)、実証(反証)、他の人々と結果、データを照合、反復すること。
 伝統的な考え方の中で特にキリスト教の神秘主義者が唱えている多元的認識論があります。人間は物事を認識する為に少なくとも3つの知識の眼があります。その3つとは、肉の眼(五感、経験主義)理知の眼(理性、合理主義)黙想の眼(魂、神秘主義)です。大いなる連鎖のレベルを把握する為にそれぞれの的確な眼の使い方があります。物質、身体、物理の世界は肉の眼を、数学、論理、象徴の解釈などの世界は理知の眼を使ってみる事ができます。そこまでは現在の科学の領域内でありその存在を認めています。魂、あるいはスピリットは肉の眼、理知の眼で見る事は不可能です。この二つの眼で見えないので今の科学はその世界を拒絶、否定しています。望遠鏡で探しても神は見えない、メスをもって解剖しても魂は見つからない(肉眼の世界)だから存在していないという短絡的な結論に走ってします。カントは、純粋理性(理知の眼の世界)を使っても神と霊魂の不滅または存在を証明できないと主張しました。なぜならそれは理性の射程外、理知の眼が届かない次元だからです。そこでスピリットをかいま見る為の3つめの眼のが必要となります。その眼を開く為にはやはり訓練がいります。学問的な事を理解したり楽器をひいたりするために何年も勉強や練習をしなくてはいけないように。宗教の実践(例えば瞑想)もたゆみなく続けて行うと魂やスピリットに対する気づきやつながりがでてくるのです。
 その為にそれぞれの宗教がそれぞれの方法を提供しています。例えば、代々伝授されている座禅という方法があります。広い意味では非常に科学的、経験主義的なものです。科学的な三つの要素を当てはめるとこうなります。1、指示、実験:姿勢を正してひたすら座って心を空にすること。2、経験、感受:空になると、虚空とつながり宇宙の大いなる力と合一することがありえます。(人格神論では神と合一 -unio mystica- インドのヨガで梵我一如と呼ばれる)3、見性(悟った事)老師と共同体(同じ体験をした人)に確認してもらう。
 禅以外のどの宗教、どの時代、どの文化でも神性を経験したという証言は無数にあります。全てを幻視であるといって片付ける事は出来ません。これが真実であるかどうかを確かめようとすることが本当の科学的な態度です。科学的な方法は肉の眼と理知の眼の領域だけで使う事ができるとは限りません。座禅の例で示したように黙想の目の領域でも通用します。そこからSPIRITの科学が生まれます。すなわち宗教の神髄と広い意味の科学の統合です。
 高次元な宗教経験をしなくても人間はスピリチュアルな存在ですから自我を超える経験を意識的、無意識的に誰でもすることでしょう。危機に面したり死を直前にすると人間は透明になりますのでスピリットの次元に接する事がよくあります。また生前にスピリチュアリティを育むとスピリチュアルペインを和らげることになりえるかもしれません。
 スピリチュアリティは特定の宗教を超えた事象です。SPIRITが確かに存在すると指摘するのは宗教家、神秘主義者です。おなじSPIRITを証言しますがその為に言葉が必要となります。そもそも言葉で表す事ができないことを言葉に表そうとすることです。無限を限定する事。空を形(色)にしようとする事です。だからそれぞれの宗教は違う言語、違う形を提示する事になります。けれど形をこえると内容は同じなのです。SPIRITです。その次元を目指すのは人類共通の永遠の哲学ー叡智ー(philo)sophia perennis あるいはトランスパーソナル 心理学です。それらの分野ではスピリチュアリティについて非常に科学的なアプローチも可能なのです。

参考文献: 
ウィルバー ケン: 科学と宗教の統合. 春秋社 2000
Smith, Huston: Forgotten Truth. The Common Vision of the World's Religions. San Francisco: Harper 1992 [1976]

      
      
Published in:
Hyôgo Sei to shi o kangaeru kai: Kaihô/Bulletin 33, 2005, 8-10